- 2013-11-26 02:42:04
- 福岡市と福岡城と黒田官兵衛3
-
カテゴリ: 福岡の歴史
こんばんは、黒田官兵衛のことばかり考えています。
岩永です。
前回の記事と
福岡市と福岡城と黒田官兵衛2
ちょっと前の記事と
福岡市と福岡城と黒田官兵衛
そして今回は3です。
いつまで続くんでしょう?(笑)
とりあえず、
先週土曜日、テンジン大学の授業で、
「福岡城」を攻め落とす!という企画をやりました。
5隊編成で、隊長は陣笠をかぶって、
のぼりも5本あります。
この企画、個人的にやりたかったんですよねー。
なぜ攻め落とすのか?
それは、福岡城のすばらしさを伝えるには
「攻める視点」で入っていくと、よくわかるから。
若い男女が集まり、
「福岡城って相当すげぇえ!」みたいになるわけです。
しめしめ♪
みんな福岡城のファンになったんじゃないかなぁ?
この福岡城を築城したのは
黒田長政。
とは言え、
その父ちゃんであり、
日本三大築城名人と言われ(当時は言われてない)
大阪城、広島城、高松城、中津城、名護屋城と
縄張りをやってきた黒田官兵衛が存命だっただけに、
そしてこの地に城を築くと決めたのも黒田官兵衛だそうで、
いろいろ口出しているにちがいないとふんで良いでしょう。
ご存じのこの方、
黒田官兵衛。
これは福岡市にある黒田官兵衛の菩提寺、
崇福寺(そうふくじ)が持っている肖像画。
秀吉のもとにいて、
数々の城攻めを経験。
それでいて多くの城の縄張りまで経験。
自分自身が骨をうずめ、
黒田家が末代まで続くようにと、
集大成を注いだ福岡城は、
それはそれは・・・
なにがすごいって、
その守備力★
東は博多区の博多駅から北側に
御笠川沿いにおびただしい数の「お寺」を配置。
そのほぼすべてが、
お寺の参道がお城の方を向いている。
逆に川側はお墓を配置。
でもこれだけじゃない。
(文化9年(1812)写 福岡城下町・博多・近隣古図
:九州大学デジタルアーカイブ室より)
クリックして拡大してみると、
赤く線で囲ってますが、
博多のまちから、福岡側へ渡るのに橋がひとつしかない。
さらに、那珂川沿いには
ものすごく強固な石垣が並んでいるのが
この古地図から読み取れます。
どんな石垣だったか?
それが明治時代まで残っていまして、
写真で残っているんですね。
場所は、
当時、橋がかかっていた
赤煉瓦文化館のあるところ。
江戸時代後期の
博多にいた庄林半助が書いた見聞集「旧稀集」でも
と、
とても強固な石垣がそびえているのがわかります。
その跡が、今でもアクロス福岡から
中央公園にかけての川沿いに見られますよね。
こう考えると、
福岡城の規模は九州最大と呼ばれていますが、
加藤清正がびっくりして、
現代風に言うと
「俺の熊本城より10倍すごいじゃん!」
ということです。
それくらい、この黒田親子が残していった、
福岡城とその城下町というのは、
今に残る昔の人の知恵ですね。
そうそう、
今晩にKBCのドォーモで、
先に紹介した「福岡城を攻め落とす」の授業で、
先生をしてくださったY氏が出演。
福岡城の抜け穴伝説を探るという企画で。
大阪城も抜け穴伝説がありますし、
当時、築城された城は
多くの抜け穴伝説があります。
真田家なんか有名ですね。
黒田官兵衛が最後の集大成を注いだ福岡城。
われらが街の誇れる遺産ですね★
あ、
ちなみに、
「歴史は正確に語らんといかん!」
なんて言う方がおります。
これってとても矛盾を感じていました。
そもそもその歴史って、
物的証拠が残っている、
いわゆる昔の誰かが書いた「書状」や「日記」に
記載があるかどうか。
福岡城の天守閣も、
あったかなかったか、
その問題で揺れておりますが、
「現代ですら、ブログやメールは
あいまいな情報に溢れている」
というのに、
当時の人は全部正確に事実関係調べて書いたとでも?
伝聞なんかは、
たいてい事実が変わって伝えられますし、
それを言えば事実なんて、何が本当かわかりません。
正確なものだけが歴史であれば、
歴史は専門家だけのものになる。
視点を変えれば
歴史はまちづくりにも、そのまちの愛着にも
観光資源にもなる。
そう考えれば、
なるべく史実を伝えるのは大切ですが、
「広く知らしめるため」に、
おもしろおかしく表現をちょっと変えてみるとか、
視点をちょっと変えてみるとか、
おおいにしていいと思っています。
知らない、知られてない
ということは、
この情報過多社会では
「存在しない」のとニアイコールになっちゃいますからね。
現に、
福岡城の存在すら知らない人もけっこうな割合いるという
福岡市。。。
今後も、
いろんな切り口で、
広めていこうと思います★
岩永です。
前回の記事と
福岡市と福岡城と黒田官兵衛2
ちょっと前の記事と
福岡市と福岡城と黒田官兵衛
そして今回は3です。
いつまで続くんでしょう?(笑)
とりあえず、
先週土曜日、テンジン大学の授業で、
「福岡城」を攻め落とす!という企画をやりました。
5隊編成で、隊長は陣笠をかぶって、
のぼりも5本あります。
この企画、個人的にやりたかったんですよねー。
なぜ攻め落とすのか?
それは、福岡城のすばらしさを伝えるには
「攻める視点」で入っていくと、よくわかるから。
若い男女が集まり、
「福岡城って相当すげぇえ!」みたいになるわけです。
しめしめ♪
みんな福岡城のファンになったんじゃないかなぁ?
この福岡城を築城したのは
黒田長政。
とは言え、
その父ちゃんであり、
日本三大築城名人と言われ(当時は言われてない)
大阪城、広島城、高松城、中津城、名護屋城と
縄張りをやってきた黒田官兵衛が存命だっただけに、
そしてこの地に城を築くと決めたのも黒田官兵衛だそうで、
いろいろ口出しているにちがいないとふんで良いでしょう。
ご存じのこの方、
黒田官兵衛。
これは福岡市にある黒田官兵衛の菩提寺、
崇福寺(そうふくじ)が持っている肖像画。
秀吉のもとにいて、
数々の城攻めを経験。
それでいて多くの城の縄張りまで経験。
自分自身が骨をうずめ、
黒田家が末代まで続くようにと、
集大成を注いだ福岡城は、
それはそれは・・・
なにがすごいって、
その守備力★
東は博多区の博多駅から北側に
御笠川沿いにおびただしい数の「お寺」を配置。
そのほぼすべてが、
お寺の参道がお城の方を向いている。
逆に川側はお墓を配置。
でもこれだけじゃない。
(文化9年(1812)写 福岡城下町・博多・近隣古図
:九州大学デジタルアーカイブ室より)
クリックして拡大してみると、
赤く線で囲ってますが、
博多のまちから、福岡側へ渡るのに橋がひとつしかない。
さらに、那珂川沿いには
ものすごく強固な石垣が並んでいるのが
この古地図から読み取れます。
どんな石垣だったか?
それが明治時代まで残っていまして、
写真で残っているんですね。
場所は、
当時、橋がかかっていた
赤煉瓦文化館のあるところ。
江戸時代後期の
博多にいた庄林半助が書いた見聞集「旧稀集」でも
と、
とても強固な石垣がそびえているのがわかります。
その跡が、今でもアクロス福岡から
中央公園にかけての川沿いに見られますよね。
こう考えると、
福岡城の規模は九州最大と呼ばれていますが、
加藤清正がびっくりして、
現代風に言うと
「俺の熊本城より10倍すごいじゃん!」
ということです。
それくらい、この黒田親子が残していった、
福岡城とその城下町というのは、
今に残る昔の人の知恵ですね。
そうそう、
今晩にKBCのドォーモで、
先に紹介した「福岡城を攻め落とす」の授業で、
先生をしてくださったY氏が出演。
福岡城の抜け穴伝説を探るという企画で。
大阪城も抜け穴伝説がありますし、
当時、築城された城は
多くの抜け穴伝説があります。
真田家なんか有名ですね。
黒田官兵衛が最後の集大成を注いだ福岡城。
われらが街の誇れる遺産ですね★
あ、
ちなみに、
「歴史は正確に語らんといかん!」
なんて言う方がおります。
これってとても矛盾を感じていました。
そもそもその歴史って、
物的証拠が残っている、
いわゆる昔の誰かが書いた「書状」や「日記」に
記載があるかどうか。
福岡城の天守閣も、
あったかなかったか、
その問題で揺れておりますが、
「現代ですら、ブログやメールは
あいまいな情報に溢れている」
というのに、
当時の人は全部正確に事実関係調べて書いたとでも?
伝聞なんかは、
たいてい事実が変わって伝えられますし、
それを言えば事実なんて、何が本当かわかりません。
正確なものだけが歴史であれば、
歴史は専門家だけのものになる。
視点を変えれば
歴史はまちづくりにも、そのまちの愛着にも
観光資源にもなる。
そう考えれば、
なるべく史実を伝えるのは大切ですが、
「広く知らしめるため」に、
おもしろおかしく表現をちょっと変えてみるとか、
視点をちょっと変えてみるとか、
おおいにしていいと思っています。
知らない、知られてない
ということは、
この情報過多社会では
「存在しない」のとニアイコールになっちゃいますからね。
現に、
福岡城の存在すら知らない人もけっこうな割合いるという
福岡市。。。
今後も、
いろんな切り口で、
広めていこうと思います★
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